EVERYTHING IS

想起特訓。忘れかけたことを思い出すのだ。

穴埋め問題

 知らない旅館の中にいる。仄暗くどこにいるのかもわからず、窓から差し込む月明かりだけを頼りに進む。気づくと外に出ていて夜の坂道を登っている。上り坂は気づくと下り坂に変わっていて、下った先に変わった露天が立ち並ぶ。川沿いに並ぶ露店には中性的な店番の男が立っている。赤い装束を着て、提灯を持っている。結婚式の会場に行かなければならなくて私は急ぐ。車が急発進をして、坂道を登っていく。坂道の頂上に旅館があるが、なかなかたどり着けない。木にぶつかる。絶望感が私の肺腑を焼く。どうしようもなくなり、失われた何かに穢されながら、墜落感とともに車を降りる。明滅する光が人のシルエットを映し出す。
 自分で選んだ、と思っていることが実は他者の判断や社会的判断の影響を受けていることってよくある。だから、自分の決断だと思っても、読んだ本の受け売りや、いままでの経験則や誰かのコピーだったりする。まぁ、そんな影響を受けた決断それ自体がいままでのすべてで構成された今の自分なわけだから、これが自分の判断だと自信を持って言ってもいいんじゃないか? 確信は無いけれど。
「ありえない。確信を持った断言以外ありえない。そうでなければ言葉を発するな。曖昧なことなど罪悪だ。決心や確信の無い言葉は空虚な意味の無い言葉だ。言葉の意味と自分の感情がシンクロしていなければ言葉は伝わらない。伝わったとしても空虚な感情の籠もらない、記号としての言葉がゴーストとして、君とは全く関係ないその言葉を聞いた他者によって解釈され増幅されたものだ。常にすべてを籠めてしゃべるべきだし、語るべきだ」
「あー、今日も書けないだめだー」
「そんなこと無い。書けてないわけじゃないよ。元気出して、センセイは天才なんだから。机に向かって1時間も立てば、名作の芽がひょこっと顔を出すよ」
「あれ、そうかな……そうかも。僕は天才!」
「そうだよ、テンション上げてこ」
「うぉおおおお書くぜー」
 とモチベーションを保ってくれる存在が近くにいるととてもいい。それは脳内でもいいが、現実だともっと言い。自信と喜びによってモチベーションは保たれる。自分が書いていて楽しい。それを読んでおもしろがってくれる人がいる喜び。
 
 書いていてつまらないと感じるのはなぜか? おもしろいと思って書いていないだろうか。画面にたいして書くのと手書きで書くのはどう違うんだろうか。
 ただノルマをこなすように文章を埋めていくのに意味はあるだろうか。

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