量を書くための無思考執筆
何かを捕まえる。この言葉は比喩だ。捕まえるために生きている。灰色のモスコミュール。思いつく言葉やシーンやイメージや想起されること、思い出したこと、見えているもの、見たいもの、見えないもの、願い、願望と欲望、感情と無感情、そういったことを反射と反応と刹那の考えでムリクリ書く。
ムリクリという言葉はすらっとでてきたが北海道の方言らしい。知らんかったなぁ。
ぎこちない会話。誰かと友達になるということ。
「……あ……あ……っ」
あのと声をかけたいかけたいが言葉が出ない。ただ背中を見ている。
「あの……すみません」
声が小さいのか声が届かない。頑張って出した勇気が報われなくてもう一度話しかける勇気を失っている。
一歩を踏み出す勇気とは? まず失敗を恐れない。失敗することが前提であれば行動できる? 失敗して傷つくのが怖い。なぜ傷つくのか? 失敗することで笑われたり怒られたり、嘲笑されたり見下されたりするからだ。
そもそも、見下している奴は人として低いのだから気にするな。
「気にするなで、気にしなくなれれば最高だな……」
気にしないようと意識すると余計に気にしてしまう。
白いパンダを想像しないでください理論だ。
勝手に気にしてしまう。思考を占領されてしまう。
そういうときはまず、自分が気にしているということに気づくことが大事だ。
『気づき』
最近流行りの言葉だ。
マインドフルネス=ヴィパッサナー=気づき
いまこの瞬間に気づき判断を加えない。
それそのものをそのまま受け入れる。
その時出てくる自分の感情などにラベルを張って分類して客観的に見る。
恐怖。怒り。歯を噛みしめた。下顎に力が加わる。両手両足に力が入って身体が硬くなっている。嫌なことを言う奴をぶん殴りたい。ざまぁみろ! と言ってやりたい。
自分にとって正しくない人間をすべて矯正してやる。
この欲望はなんなのか。
自分を馬鹿にした奴は許せない。というのはなんなのか。
その怒りはどこから調達されるのか。
激しく燃え上がる炎。
敵意に対する反逆。戦う意志だ。
「もともと戦うようにできているんじゃないか」
「そんな、戦闘民族じゃあるまいし」
「他の人類種族や、多量の生態系を絶滅させまくってる破壊人種だぜ?」
「攻撃されたと感じると、生き残るために反発する意志(怒り)のようなものが出てくるの? 自分が否定され続けるとそのコミュニティで生き残れなくなるから、自分を否定するものを否定することで自己を保とうとする」
「……その自己ってものがくせ者だと思うが」
「何を持って自己とするのか」
私を私とするものは何なのか。この身体が行動し影響するもの。
私のせいじゃない。全部きっとそうだ。そうだを繰り返している。
言葉は口の中からでてこない。どこから出てくるんだよ。しなりをもって意味もなく意味もあるような。そうそう、リライフをまた見返していた。なんとなく好きなアニメだ。えぐくもなく、ハッピーエンドが約束されているようなアニメだ。だから許せるし軽く見れる。軽く見れるものと重くて見れないものがある。たいてい重いと思っているものは、自分の想像の方が重い場合の方が多いけれど。
いつも一人なのが嫌いだった。飛行船を撃ち落としたかった。一人になれれば、水平線をずっと見ていてもなにもいわれない。朽ち果てた草原で、一本の物差しに薄汚れた、元は白かった洗濯物が干してある。
さよならの言い方はたくさんある。
いつか、世界、滅びる。
思春期が枯渇しているから、感情は爆発させられないから、無理やりにでも眼をぎらつかせて、身体を動かして身体のどこかに眠っている感情の揺り籠を揺すってあげないといけない。
なにもでてこない場合、何も出てこない。なぜ出てこないのかということを延々と繰り返せば言葉はかける。最終的には思いつく単語でしりとりでもすればいい。
りんご→ごま→まらかす
りんごの皮の栄養価は高い。
ごまの栄養価も高い。
マラカスはもうカラオケでしか見ない。
思いつくことがんがん書いてけばなんとか量は生み出せるが、おもしろさがたりねぇんじゃねぇのってなる。でも次々書かないと間にあわないからとりあえず書く。
隠している感情や秘密があるから苦しいんだ。
全部さらけだして。すべての問題を解決している人は苦しくはない。
問題や悩みの数を減らせばそれだけ余裕はできる。
一つの話題に対する文章量が少ない。そのことに対する言葉がないからだ。
言葉を尽くして語るということができていないのだ。
夢の中でテストが始まる。;僕は筆記用具を忘れていて、誰かに貸してもらいたいが貸してもらえない。全てが終わりを告げる。そういうことがきっとある。指先の癖が自分を形作っている。うぇあらぶる機器でしっかりはかればいい
`首から上を切り落としたままずがんと飛ばしてトタンの壁にぶつかりずるずるクビが落ちて……。
ヒロインが死ぬ
ヒロインが死ぬとショックを受ける。ショックを受けるのは死んで欲しく無いからか……。キャラクターが死ぬとなぜショックを受けるのだろう。
トップをねらえ1,2、デビルマンの新作を見ていた。
グレンラガンの最終回を思い出す。ヒロインが失われる。リアルタイムで見ていたが、せつなさを感じた。胸の部分がぐるぐると渦巻く。悲しみに包まれつつも、素晴らしいものを見たという気持ちがある。
デビルマンは原作を読んでいたので、そうなることはわかっていたが、そうなって欲しくなかった。牧村美樹は可愛いキャラだったから、自分がけっこうショックを受けていることに驚いた。
グロテクス描写が苦手な訳では無い。後ろから巨大なナイフで切りつけられて血が吹き出て、首が切断され、槍の穂先に吊るされる。
どうでもいいキャラクターだったらなにも感じない。感情移入ってどういうことだろう。なんとなく、知り合いになった気分。この人が何を考えて、どういうことしているのかがわかっているような時。
まだ生きたいと望みを抱いている。
人間が悪魔よりも悪魔になる瞬間。
徹底して描かれる人間の醜さ。嘘の情報に惑わされ、隣人を殺す。怪しいと思った人を磔にする。怪しいかもしれないと考えると、どんな情報でも敵を作る。
絶望だ。すごく嫌な感じだ。
裏切りだ。バッドエンドだ。
このどうしようもないものを見せられてどうすればいいんだろう。
一方残酷なものを見たい気持ちもある。
バッドエンドとハッピーエンドを両方同時に味わいたい。
という矛盾した感情がある。
最高のハッピーエンドは絶望のバッドエンドを超えた先にある。
ループものやゲームはこの構造を利用している。
何度もバッドエンドになって、それを繰り返し少しずつ前に進み、
いつかは同じではなく見果てぬ地平に辿り着く。
100の講義メモ
- 作り方がイメージできないと作るものだって決まらない。
- それをどう実現するのか。
- 人の眼を気にせず、自分の眼をどう意識するか。
- そこでしか出会えない文が綴れないと、商品価値は無い。
- うまくなる方法は作り続けること
- 時間が無いからやれないのではなく、やれないから時間が無いと言う
- 自分が思いつくことが、楽しみを見つける一番の方法
- 書斎でうんうん唸って考えてから、ぶらっと出ると思いつく。考える時間なしにぶらぶらしてるだけでは思いつかない。
- 知らないことに対して、調べる前に、自分でこうなんじゃないかという自分なりの仮説を持つことが大事
- みんなが読みたいものを探して、嫌々でも書く
- 感動というものは、人からもらうものではない。
- 自分が観察し、自分が受け取り、自分が解釈し、自分が考え、自ら感動するのではないか。
温泉に入る練習。
気づかせる文章とは?
白いノートを前にうんうん唸る時間が必要だ。無理矢理にでもその時間帯に文章の量を捻り出そうと最近は考えていた。より深く考える前に文章になってしまうと、そこで思考が断ち切られる場合もあるのではないか? いや、ある。
文字になる、言語化。自分の足跡を残すようで気持ちがよい。だからといって、自分だけに生み出せない文章に意味はあるのだろうか……。
制約
約束を破ることが当たり前になっているのはよろしくない。すべての約束を守ると強く考えていれば、自分が決めた〆切りを破るようなことはしない。嘘もつかない。
まじめ 空想 魂の文章
最近真面目に文章書こうとしすぎてた。もっと自由で馬鹿げててよろしい。普通になるとつまらん! 新規性と意外性が常になくては!
感情のうちに分類することのできない矛盾に矛盾を重ねるようなぐるぐると回る感情を味合わせるような奇妙なものを見たい。
言葉にできないもの。
言葉にできないから情景に託したり、動作で表したりする。
文章の向こうに隠れているものがある。
気づかないうちに進行しているさまざまなこと。
好きな人の好感度をあげるために頑張っている人がいた。
抗癌剤治療で髪が抜け落ちて、いつも帽子を被っていた散髪屋のお父さんが亡くなった。
こういう文章を書くときに明確に何が伝えたいかはっきりあるのと無いのとは熱量が違う。そこに込められた意味も違う。
この文章の熱量はすごかった。現実にそういうものがあったからこその内容なのか、魂を込めて伝えたいという想いが伝わってきてぐっときた。
何度も書き直して書いたのだろうか。書いた人はどんなことを考えて書いたんだろうか。文章は誰かに届くんだろうか。
なぜ、響くんだろうか。
誰かにために、大切な人のために、失った喪失感。
ほんとうを語っているという感覚。
フィクションでもフィクションじゃなくても、文章にした瞬間ある程度主観的になる。選んで並べて、作り上げて。
いかに信じて書くか。書けるか。
本当に信じてる。なによりも伝えたいって熱がある。
読んで欲しいという炎がある。
そういうものが自分には足りない。
自分の感情が揺らがない自分の文章をほかの人が読んで揺らぐわけがない。
自分の感情が破裂しそうなほどに、感情を込めて書く。
魂を込めるって、真剣に向き合うってこと。
伝える意味
何を伝えたいんだろう。誰かに何かを伝えようとしている。自分をわかって欲しいと思っている。自分の価値を承認して欲しいんだろうか。
「認めてよ!」「はい」
簡単に認められるなんて信じられない。たった一人に認められても信じられない。不特定多数の全く私に利害関係の無い人に認められて本当に信じられる。自分に価値があるのだと。
しかし、価値などもともとないのだぜ。
知ってるだろう、最初から。
無意味で無価値で死にゆく人間だ。
無理やり僕らは繋げていこうとする。
言葉で伝達し、忘れないように残し、未来へと。
自分を形作るいままでよりももっと前、
産まれる前の世界の自分を生み出す一番最初のきっかけまで遡りたい。
無意味無価値なんてのは言葉遊びだ。
人自体が言葉遊びみたいなもんだ。
言葉で思考する認知革命が起こってから、
生き延びるために言葉を活用した。
いまも生き延びるために言葉はあるんだろうか。
願え、伝われ、叶え。
最高にハイな気分に人をさせるドラッギーな文章を書けたらな。
世界は肯定され、私と君と君以外のすべての人間の人生は肯定され、
嫌なことはすべて、幸福のための伏線と成り果てる。
備忘録
ドラマの始まる「今日」は、主人公の人生の他の日とは違ったものでなければならない。それが何であれ、今日はキッカケとなる事件、主人公に、解決すべき問題、克服すべき課題、乗り出すべき冒険を与えるような異常な出来事が起きる日なのである。出典:https://t.co/DkEn3hUj6V
— ストーリーの書き方 (@kakuniha) 2017年1月16日
日常の会話というのは、極端に言ってしまうと、聞き手は話し手の意図を取り遠えて納得しているということを押さえておく必要がある。聞き手は、話し手の話を聞きながら、たえず並行して別の関心事に気持ちが行っているのだ。(保坂和志)出典:https://t.co/3ykqbHerNO
— ストーリーの書き方 (@kakuniha) 2017年1月16日
自分は努力や勉強によって脚本を書く能力を身につけたと思っているのに、なぜか他の優れた脚本家の人たちは天から才能を与えられているような気がしてしまう。他人の努力は目に見えにくいからだろう。他人も自分以上に努力したと考える方が「何か真似出来ることはないか」と前向きな視点が得られる。
— 尾崎将也 (@ozakimasaya) 2016年12月24日
→そして詩人らしく、素敵な文章がそこかしこにあります。"私は自分が重い家になり、身動きがとれないまま、冷たい風を吹き込ませている心地がした。「風は気ままに撫でていくだけで、この身を温めることはない」と一人諦めていた。本当は自分の足で歩き、温かな光を浴びに行くことができるのに。"
— フランソワーズ (@chatiguri) 2016年11月25日
出典は分からないのですが、ネットにあった思わず膝ポンの言葉。
— 小池一夫 (@koikekazuo) 2016年11月14日
「『これがなくなると精神が落ち着かなさそう』というものはかたっぱしからなくすと精神が安定する。」仏教の教えに通ずる。実践しみます。(小池一夫)
「お前は見られている」が宗教。「見られていなくても」が道徳。「どう見ているか」が哲学。「見えているものは何か」が科学。「見えるようにする」のが数学。「見ることが出来たら」が文学。「見えている事にする」のが統計学。「見られると興奮する」のが変態。
— ゴン太 (@gontachan57) 2016年11月12日
「誰にも読まれない新人賞の応募の小説を書くにはモチベーションが続かない」と感じたら、ちょっと思い返してみるといい。
— 鈴木輝一郎@「桶狭間の四人」絶賛発売中! (@kiichiros) 2016年11月8日
あなたがその作品を書くとき
1)生活がかかっているか
2)人生がかかっているか
プロの場合、このどちらか、または両方がかかってます。(鈴木輝一郎小説講座)
中年になって気づいたのは、いい歳になったら人前では明朗快活にふるまってみせることが(ほぼ義務に近い)たしなみだということ。中年以上が暗い顔で不機嫌をふりまくと、その場そのものが台無しになる。若者の暗さは人の気を引く要素かもしれないが、歳を食うと暗さはただ人を遠ざける要素になる。
— dw (@dw__) 2016年10月31日
なぜ書くのだろうか。もっとうまくは書けないのに。だが、もし、こうしてわずかながら書き上げるものを書かないとしたら、私はどうなってしまうだろうか。たとえ、内容が本来の自分以下でもしかたないではないか。私は、理想世界の下層民なのだ。というのも、私は理想を実現しようとしているのだから。
— フェルナンド・ペソア (@FPessoa_b) 2016年10月30日