EVERYTHING IS

想起特訓。忘れかけたことを思い出すのだ。

よくわからないもの

 何かを書いていると自分でも思いもしなかったことが書かれていく場合がある。これは誰かとしゃべっている場合も同じで、自分がそんなものを持っているとは知らなかったのに、内側から創造されるようにでてきたものだ。

 自分が表現されるその瞬間高揚感と喜びがわき上がる。 

 考えるな、書け。を実践するとともかく指を動かすしかなくなる。なんでもかんでも考える前に指が動く。となると、指先がとてもなめらかに動く文字列しか打たないんじゃないのかとも動くが、すっとこどっこい。ちゃんとよくわからないものをうち続ける。あー、わからんわからん。希望の国へ行きましょう。ヘイヘイ、そういうのがうちの商売成り立たなくさせるってのがなんでわかんないのかな、あんたわ。

「うぎゃー」
 身体を真っ二つに切られた男を目撃した。マスクを被ったチェーンソー男がギャリーンと殺ってしまった。内蔵がどろどろとこぼれてくる。
「んぎゃー、あなたー」
 奥さんらしき人が内蔵を元に戻そうと頑張っている。がんばれ。

 僕はこういうホラー的なスプラッターとか全く興味無いのになんでこんな場面に遭遇するはめに落ちいるんだろう。
 ところで僕は彼女を待っている。デートの約束をしていたことを思い出した。今この瞬間にすべてが創造された気もするが。
「おまたせ」
 お待たせしました。

 

 意味を考えると書けなくなる。意味の連続性を意識すると、陳腐になる。終わりだ。終わらせるために書いている、終わりが見えない。始まりがわからないからだ。何を書いているのかわからない。わからないから楽しい。わかっていたら楽しくない。
  いつも反発の想像力が、アンチになる。
 かわりばんこに君の役柄を演じていた。
 子供の泣き声が聞こえていた。
 昨日は暖かかった遺体が今日は氷のように冷たくなった。

 

ただ過ぎ去る

 余った時間を全く使えないことに憤りを覚えている。やろうとしていることに興味が出ない、やる気がない。ならば、そもそもやりたいことではないのだろう。やりたいことに優先順位をつけていき本当のものを探そうとしても、探している途中に入れ替わっていく。瞬間瞬間にやりたいと思うことがあってそれに100%をつぎ込めればいいのだが……なかなかうまくいかず、中途半端に何も為しえないのだ。
 病的な想像力。
 小説を書きたいという想いはあるが、書きたいという衝動は無い。誰かにすごいと言われたい。承認欲求が駆動力になっている。ただだらだらと日々が過ぎていく。
 小説という器があって、そこに文章をそそいでいく。
 文字数や物語が一定の量を超えると長編小説という形になる。
 まず、その器を探しているところだ。
 器はそこらじゅうに転がっている。男の子が女の子を救う話。
 基本構造から、よりコアで具体的な話まで。
 物語のパターンは器だ。器の満たし方は作者によって異なる。
 だから同じ物語構造でも全く違う話ができあがる。

 

 全力を尽くせるものを探している。それがどこにも無い気がして途方に暮れる。ただ、一つの文章に全力を尽くす。そういうことは原理的に存在しない。
 文章は文脈で輝く。
 ラスト近くの文章と序盤の文章は同じでも違う。
 ラストに近づくにつれて紐で引っ張られるように張り詰める。
 

 まず、現時点で何も無いことを認識する。

 そして、自分の中の地下二階からくみ上げる。

 無意識から出てくるものみたいな、自分でもよくわからない文章をよくわからないまま書く。ともかく書く。書くことで意味が見えてくることもある。
 器を探しながら書く。ただ、書く。

 いつのまにやら器の輪郭が見えてきて、方向性が決まっていく。

 君が見えてくる。僕がわかってきて、私が泣き始める。

 君が変わって、世界が変わる。

 風が吹いて、物語は終わる。

祖父が去った

 祖父が死んでしまった。肉親の死は初めてだった。てっきり、危篤状態の祖父の元に駆けつけて、心電図がピーと鳴り「ご臨終です」と言われるものだと思っていた。家に帰ると姉が亡くなったよと軽く告げた。
 衝撃を受ける間もなく、そうかと受け入れた。
 死ぬことはわかっていたが、唐突だった。あまりにも自然に自分が受け入れているため、もっと物語的なドラマティックさが欲しかった。もっと自分は悲しむべきだと思った。しかし、慟哭するような悲しみはやってこなかった。

 

感触

 なにかを掴んだ気がする。その瞬間はなんでもできそうな気がする。もう大丈夫だ、という万能感に包まれ安心して過ごす。するとその掴んだ感触が失われていく。震えるほどの感動が薄れていくように、だ。
 手応えを掴み取る。
 文章を書くときはいつも書けると書けないの狭間にいる。うまく書けた時の感触を思い出して、自分は書けるんだと暗示をかけて、文字の連なりを見つめている。
 力を入れて力みすぎても書けない。なんとなく、なぜかはわからないけれど書ける気がする。この程度が一番いいのだろう。すべてを超越するようなものは少ない文章では生み出せない。長く書き続けることが強大なものを生み出す場合がある。
 書いた文章を読み返すとつながりがおかしい気がする。だから、何度も書き直す。書き直すことを前提に書けば気楽に書ける。ここの部分は微妙だから後で直そうと考えておけばいいのだ。
 内容が無いのは、書くことを考えていないのに書き始めるからだ。あるのはニュアンス――感覚/感触だけで、その感触を伝えようとして書き始めた。
 力を手に入れるように何かを掴んで放さない。
 よくわからないものを言葉で説明しようとする。自分でもわからないものが書いているうちにわかっていく。そういう自分で書いて気づいていくことができたらとても楽しいものだなぁ。

文章

 つまらない文章でも後で読み返すと悪くない場合がある。だから、つまらないと思っても書けばいいし、つまらなかったらまた書き直せばいい。つまらないと明確にわかるならどこがつまらないかがわかるということだから、どう直せばいいかもわかるはずだ。よくわかんないなら考えろ。
 不意に文章って不思議だと思って笑えた。なんだろう? 手放されている感触みたいなものがあった。文章は自分ではない。そこに書かれた瞬間手放される? ものすごく個人的なものであっても客観的なものになる? それでいて限りなく自由。

 常に手を動かさないいけないわけでもない。
 フィジカルに書いてもいいし、カッチリ頭で考えてもいい。
 映像を追いかけて、言葉を追いかけて、じっくりみた後書いてもいい。
 思い出してもいい。感触や感情、音を思い出す、文字を見る。
 読んだ文章の字面を思い出す。